Plan B Diary

趣味の日記ブログです

「ノートPCで文章を書く」というスタイルが好きだ

デスクトップPCを持っているけど、ノートPCも使っている。

しかもノートPCは基本的に外の持ち運ばない。
ほとんど家の中でブログを書くためだけに使っている。

「デスクトップPCでも文章は書けるじゃないか。ディスプレイのサイズもそっちの方が大きいだろう」と思われるかもしれない。
確かにその通りだ。

でもなぜか「ノートPCで書く」というスタイルが好きなのだ。

小学校に上がる前の子供の頃、おもちゃのタイプライターを親からもらった。
わざわざ子供に買い与えるようなものではないので、きっと何かの景品でもらったものだったのだろう。

スヌーピーのキャラクター商品で、赤い英文タイプライターだった。

ローマ字もろくに知らなかったので、とにかくバシバシとキーを叩いて、意味不明なアルファベットの羅列を作って遊んでいたのを覚えている。

映画「シャイニング」でジャック・ニコルソンがおかしくなってしまって、タイプライターで実は同じ文章を打ち続けていたというシーンを見た時、「なんか似たような遊びを昔していたな」と思った。

冬山で長時間孤独を感じたはないので、ジャックの気持ちにはなかなか共感はできない。

しかし、タイプライターで文章を書くことは他の執筆手段より、自分の世界に没入しやすいと思う。
ジャックが手書きで文章を書く作家であれば、映画のような悲劇は起こらなかったのではないか、などと考えてしまう。

まず、手で文章を書く行為は意外と肉体労働である。
結構全身を使う。

アイデア出しなどで手書きが推奨されるのはそのためだ。
手書きは身体感覚を刺激される。
脳を刺激して、発想を促そうというわけである。

比べてタイピングは基本的に手の運動で解決する。
そしてタイプライターなら紙面、ノートPCなら画面を見るためには視線を落とす必要がある。
視線を落とすと、否応なく前傾姿勢をとることになる。

姿勢は精神状態にも影響を及ぼすと考えている。
前傾姿勢をとると、例えば腕を組んでふんぞり返っている状態より、物事に対して積極的に関与していこうという気分になる。

腕を組んで人の話を聞く人は無意識に守りに入っていることが多い。
そういう人に対して会議やプレゼンの場で共感を得るのは非常に難しい。

前のめりになってノートPCで書くと書くことに自体に没頭できる。

画面のサイズが限られているのもいい。
ウィンドウサイズを最大化すると、テキストエディタしか見えなくなる。
そうなったら文章を書くしかなくなる。
そうやって書く行為にのめり込んでいくことが、だんだん気分が乗ってきてタイピングスピードが上がっていくのが楽しい。

別にデスクトップPCでも同じようにテンションが上がっていいはずなのに、なかなかノートPCで書くほど楽しくない。

何で自分はこれほどノートPCで書くスタイルが好きなのか?

私のなかの作家像、ライター像にタイプライターや、ノートPCを使っているという固定観念があるのだと思う。
つまり一種のコスプレを楽しんでいるのだ。

ただ、そういった刷り込みがいつ、どこで、どんな作品を見てされたのか、心あたりがない。
強いていえば先ほど挙げた「シャイニング」だけど、観終ったあとそれほどショック受けたという記憶もない。
なんかしっくりこないが、子供のころ遊んでいたタイプライターの記憶とシャイニングの例シーンが意外と根深く結びついているのかもしれない。

最近の若い人は、スマホでなんでもできてしまうので、パソコンの操作は就職してから本格的に習得する人が多いという。
「ホントかよ」と思っていたが、実際今年の新入社員にパソコンの操作がおぼつかないヤツがいた(人事よ、なぜ採った?

フリック入力で育ってきた世代が今の10代~20代前半だとすれば、次の世代は音声入力がメインで育ってきた世代になるのだろう。
各社がこぞってAIスピーカーを市場に投入しているのを見ると、その未来はそんなに遠くないような気がする。

私が生きているうちに電脳化が一般化する可能性は低いとは思う。
でも眼球にARレンズを埋め込むくらいのが普通、という時代は来るかもしれない。

そんな時代が来ても私はしつこくノートPCを使っているような気がする。
江戸後期に生まれた人が明治時代に突入しても“身分の差”という観念を取り除けないように、時代性はどうしても身体にへばりついて離れないものだから。